8月末より、ちょうど1ヶ月間、海外を巡ってきた。最初のシンガポールでは、特注銅製茶釜の納品。ベルギーのアントワープでは、市内ギャラリーを3日間借りてポップアップストアを行った。徳利、盃、小箱等、数点が売れ、ワークショップでは2名の参加者が盃を作ってくれた。
続いてのパリでは、来年1月の欧州最大の見本市メゾン・エ・オブジェへ出展のため、現地視察を重ねる。ここまで、概ね順調。本格的な海外展開への課題も見え、市内を歩きまわりながら、語らい、悩み、考え抜き、良い方向性を何とか見出そうとしていた。
最大の難関はフィンランドだった。北欧最大の二つの見本市に出展するも、販売はゼロ。ワークショップの参加者もゼロだった。通り過ぎ行く、大勢の来場者を見つめながら、ふと、思う。きっと、何千年前の昔から、勇気ある商人は海を渡って来たのだと。胸に大きな希望を抱き、異文化に衝撃を受け、孤独を味わいながら、大昔の先人たちと同じく、今、自分は、人類の普遍性を味わっているのだと。そのような感慨が身に染みて来たとき、ようやく、ひとつの仙臺銅壺が売れた。
帰りのシンガポールでは、フィンランドとは違う歓待ぶりに心が救われる。ワークショップは、ほぼ満員御礼。靴ベラの納品や新たな企画、オーダーが舞い込む。そして、来年3月も、また、この地に戻って来ることを誓った。
この旅を総括すると、私の15歳の時の旅に似ていたと感じる。高校を中退し、全国各地を旅した、あの頃だ。自分は将来「何者」になるのか。その方向性を見出そうと必死だった。そして、その時、出会ったのは「銅」だった。タゼンにも出会った。そして妻とも。この3つは、今の私の根幹を成している大切な要素である。
そして、旅を終え、まだ本調子に戻らぬ私は、奇しくも3通の手紙と出会う。
1通目の差出人は、30年前のぼくこと、田中善から。小学校のタイムカプセルから取り出された手紙の冒頭にはこうあった。
「こんにちは。30年後のぼくは何になっているの?」
そして、「もし、タゼンをついでいるなら」と、3つのお願いが書いてあった。
・世界のタゼンにすること
・働いている人たちの給料を上げること
・たよりになる人をつかうこと
ここ最近忙しかったのは、どうやら、この約束を本能的に叶えるためだったらしい。
2通目は、今年の8月〜9月に台湾からインターンシップに来た、陳さんからの手紙だ。そこには、イラスト化された私と銅の六角杯が仲良く手を繋ぎ、「銅の友人」と書いてあった。今回訪れた、どこの国でも、ものづくりに夢中になる若者、いや、若者だけではない、熱き志を持つ者が存在した。みな、一様に日本のものづくりに尊敬の念を抱いてくれている。そして、タゼンに行きたい、と言ってくれた。そう、まさに、彼ら彼女らは「銅の友人」だ。また、いつもあたたかく迎えてくれ、現地で仙臺銅壺を広げてくれる協力者や、銅壺を買ってくれた顧客も「銅の友人」と呼ぶことができるだろう。
3通目は、「墓終い、仏壇終い」が粛々と取り行われる我が家の仏間で発見された。曽祖母の忌辞である。そこには、全角各地で活躍した当時のタゼンの弟子たちの名前があった。祖父から口伝えで、タゼンでは江戸時代、全国から弟子が集まり、そして、また全国に散らばり各地で活躍した、と聞かされていた。まさに、その証だった。
旅の途中、古き良き昔の徒弟制度から、刷新されたグローバルなビジョンが私の脳内を駆け巡った瞬間がある。3つの手紙からは、その進むべき方向へ、勇気をもらったような気がした。
今後、世界情勢はどうなるかわからない。国内情勢も様々だ。しかし、また、11月からは、毎月のように海外に行くことが決まっている。
行くぞ!世界の「銅の友人」たち!
取締役副社長 田中善