タゼンの歴史
政宗公がほれ込んだ職人のウデ
仙台のタゼンの歴史は、豊臣秀吉が権勢を欲しいままにし、栄華の限りを誇っていた天正の頃、大坂において始まる。天正時代(1573~1592年)は、とりわけ美術・工芸の技術が目ざましい進歩を遂げ、華やかな桃山文化を形成した時代である。タゼンの始祖である善蔵もまた、桃山文化の担い手の一人「御飾職」-今で言う彫金工として、大坂は田中の在でその腕をふるい始めた。
さて、この大坂にいた初代・善蔵を、はるか遠いみちのくへと連れて来たのは、ほかならぬ伊達政宗公であった。政宗公は、秀吉のもとへ上洛するたびに桃山文化への憧れを募らせていたらしい。その思いはことのほか強く、文禄・慶長の役に出陣した際に善蔵を見い出すと、大坂を離れる決心をさせた。慶長元年(1596年)のことであった。
善蔵は大坂を後にして政宗公の当時の居城であった玉造郡岩出山にやってきた。その後青葉城の築城に際して、御本丸の飾り付けなどにその腕を存分に発揮し、大いに政宗公を喜ばせたようである。功労として刀の金具や神社仏閣のアカ金(銅)の飾り付けを行う「御飾職」に任ぜられ、現在も本社を置く柳町に土地を与えられた。またこの時に、職人でありながら名字を名のることを許されている。出身地の「田中」を姓として与えられた善蔵は、この時から「田善」と通称されることになった。
大名にも庶民にも愛された田善
こうして柳町に居を定めた初代以来、田善の主は代々「善蔵」を襲名し、伊達藩内の御飾師として伸銅を業務とした。
青葉城はもとより、松島の瑞巌寺、大崎八幡神社、瑞鳳殿などの飾り金具類も歴代の田中善蔵たちが手がけたものである。
世の中が落ち着いてきた第五、六代の時代になると、お城や神社仏閣の仕事も一通り終わり、田善の仕事は庶民生活とも深く関わるようになる。この頃から、やかん、銅壺(お酒の燗などに使った。家庭用には「仙台銅壺」、業務用の「そば銅壺」などがあった)、銅鍋、割烹や旅館の風呂釜、銅製鉄砲などの製造が始まっている。八代目善蔵は三斗(約54リットル)入りの銅やかんをつくり、一関三万石の田村家へ献上して喝采を浴びた。
また、延宝年間(1673~1681年)のころからは仙台銘菓「九重」「政宗豆」「五城豆」などをつくる「かけもの鍋」や和菓子用の白餡をはじめ、細工用の餡を煮詰める「さわり」など、菓子製造器具類を手がけた。仙台に茶道が伝わり、京菓子の店が増えてきたのである。菓子の需要増大とあいまって田善の銅器具類が大いに活躍したわけだ。仙台駄菓子・太白飴など、仙台には伝統的な菓子文化が今に続いているが、田善の銅加工技術もその一翼を担ってきたのである。
このように、伝統の技術を生かしてその時代に求められるものをつくり続けた田善の姿勢は、大名から町人まで広く信頼を得ることになった。鍋・釜・やかん、蒸し釜など家庭用品の分野でも変わることない確かなものづくり。田善の銅製品は確実に庶民の暮らしの中にとけ込んでいった。
時代のニーズに柔軟に対応して
1868年、長い武士の時代が終わり、世は明治の時代に入った。文明開化の波は仙台にも押し寄せ、東北帝国大学、陸軍第二師団を筆頭に、数多くの学校・病院・官公庁、ホテル等が次々と新設された。この時代の大転換期に、当時の田善当主はいちはやく商売の方向転換を行った。軍隊や学校で使われるヤカンの製造に力を入れていったのである。
加えて、銅を材料にした医・理・化学器の製造にも着手。また、日清・日露戦争後には第二師団の下命により銅製品の制作を一手に引き受けた。一方、明治6年には従来の原始的な風呂釜を改良し、銭湯用のボイラーを製造して県内外の関係者を驚かせた。
明治20年、その画期的な風呂釜にさらに改良を加えてつくられたのが「循環式風呂釜」である。第十四代善蔵が開発したこの製品は、まさに時代の先端を行く技術であった。また景気の上昇とともに、そば銅壺、おでん鍋、各種の製菓道具類もどんどん普及した。現在でも甘党を喜ばせている今川焼の調理器具は、この頃に田善が初めて開発・製造したといわれている。
さてその十四代善蔵は、明治の後半、善蔵の襲名制廃止を決めた。男子出生の際は全員名前の頭に「善」の字をつけるのみにとどめたのである。名前を世襲しなくても、もはや田善ののれんはびくともしないという確信があったのだろう。
十五代は善七が継いだ。時代は大正に入り商売は順調そのものであった。大正7年には仙台市ガス局の前身である仙台瓦斬株式会社の発注で東北初のガス風呂釜を製造、仙台川内工兵第二大隊に納入するなど、数々の新製品を開発して躍進の一途をたどる。
しかし、大正8年(1919年)、順風満帆の田善を思いもかけない不幸が襲う。3月1日未明に仙台電話横町(南町)で出火した、いわゆる「南町大火」である。翌日の河北新報紙に『十余町に亘りて火の湖と化し阿鼻叫喚の声燎原に溢る』とその惨状が記されたこの火災で、柳町一帯も火の海に。そして田善もまた一夜にして灰塵と化したのである。南町大火は当時の金額で総額3百万円を越す被害をもたらしたが、田善もまた焼け落ち、損害は1万円以上にのぼった。この打撃で十五代善七は病床に倒れ、若くして善治が十六代目を継ぐ。
若い善治は孤軍奮闘して復旧再興に心血を注いだ。従来の風呂釜を東北・北海道などの寒冷地用に改良した「改良循環式風呂釜」を売り出し、「1分間酒燗器」「仙台銅壺」も新案、さらに仙台の上流家庭・一流料亭などで使われていた炊事の余熱で湯を沸かす「七輪銅壺」など新製品を次々に考案する。その奮闘努力の甲斐あって、やがて田善には火災前以上の盛んな営業ぶりが見られることとなった。
戦後からの復興にガンバル
次々に繰り出す新製品は需要を増やし、昭和9年7月には仙台保春院前丁に敷地400平方メートル(120坪)の第二工場を新築して業務を拡張した。
ところが、そんな上り調子の田善に時代は暗い影を落とす。昭和12年、日本は日支事変に突入。戦局は苛烈になり国家総動員法の適用を受けて銅の製造販売が禁止された。田善の暗黒時代の始まりである。事業はやむなく縮小、せっかく新設した第二工場は閉鎖された。しかし幸いにして、半田ゴテの専門メーカーとして軍の指定を受け、医療器具・理化学器等の製造・修理をして戦時下においても細々ながら事業を存続されることができた。
こうしてささやかながらも真摯に商売を続ける田善に決定的ともいえる打撃を与えたのが、昭和20年7月10日未明の仙台空襲だった。米軍B29の攻撃を受け、市内は一瞬にして焦土と化し、罹災者は約5万7千人に上った。柳町周辺も焼け野原になり、田善もすべてを失った。
何もかもなくした焼け跡から再び田善復興に立ち上がったのは、仙台大火を乗り越えた十六代善治、それに善次郎(当時20歳)と弟の故・善美(当時18歳、後の専務、平成6年没)だった。善治は若い二人を厳しく励まし、幸いにして残った保春院前丁の工場でひらすら再興に専念した。戦後の混乱状態が続き、原材料の入手も困難な中での再出発である。掘り出した錫や、水道の鉛管がハンダの材料になった。それから善次郎たちは、街頭での鋳かけ屋をしたり、焼けトタンをはじめとする鉄片類を集め、ホウロク・バケツ・井戸の釣瓶などをつくり行商もし、これも商売の糧にしたという。保春院前の貸家にしていた家に住み、柳町に通いながら復興への足がかりをつけ、ようやくにして始祖善蔵が創業した柳町に20坪の店舗・工場を新築するに至ったのは、昭和23年1月のことだった。戦前に比べれば寂しい限りの設備ではあったが、力強い、復興への確かな第一歩であった。
家業から近代企業への脱皮
戦後、田善をとりまく事情も変化する。当社独特の手打銅製品は駐留米兵の土産品として珍重された。昭和25年には朝鮮戦争が勃発。そのあおりで銅市場は市場最高値を記録し。原料高の製品安という苦しい状況に陥る。それでも、市内の岩松旅館や阿部菊旅館などから再建するための風呂釜製作の依頼を受けたのをきっかけに、県内外の旅館からの風呂釜の注文が殺到し、さらにおでん鍋、茶碗蒸し器など厨房器具の製造に追われた。明治期に十四代目が開発した「黄金焼き」を改良した回転焼き調理器具がブームのようにちまたに出回ったのもこの頃である。
終戦から10年も経つと衣食も充足。住宅の復興に伴い230平方メートルの店舗工場を増築して「なんでも焚ける風呂釜」の開発を図り、その普及に務めた。
そんな折、十六代善治が昭和30年3月28日に惜しまれつつ死去。善次郎(故人)が第十七代として社長を継承し、弟・善美(専務・故人)とともに田善の発展計画の遂行と製品の近代化を目指して全力を尽くすこととなった。昭和31年には早速、将来の燃料革命に備えてガス風呂の率先販売に乗り出している。さらに、翌32年12月に仙台市ガス局原町工場が落成したのに伴い、ガス風呂指定第一号として需要家拡張3カ年計画2万5千戸達成に協力。翌年3月には、ガス風呂釜およびそれに付帯するガス器具・浴槽の需要に応えるため、保春院前丁工場に風呂浴槽製造部門を設けた。また、拡大する需要を満たすため風呂の総合センターとして現在の地に630平方メートルの本社屋を新築。
昭和35年4月20日、田善は創業365年を期して株式会社に組織変更し、「家業」から「近代企業」へと転換を図る。以後の経済動向に対応するためには必要な転換との判断であった。「株式会社田善銅器店」の誕生である。そしてこの後、タイル工事・冷暖房工事・給湯・給水管工事等付帯工事部門を充実させ、また各種の下請け工場の十数社を傘下に置いて、風呂の総合メーカーとしての地歩を固めていく。一方この頃からポリ・ホーロー等の近代浴槽、ステンレス製流し台、ガス湯沸し器などが普及し始めており、田善はいち早く有力メーカーとの特約代理店契約を結ぶ。これより、住宅関連産業の総合商社としての顔がつくられていくのである。
地域に密着する
昭和40年代に入り210平方メートルの厨房センターを本社近くに新築開設(2階を独身寮として使用)。おでん鍋、銅壺類、焼却炉、ステンレス流し台、瞬間ガス湯沸し器などの厨房器具にもいっそう力を注いだ。風呂部およびセントラルヒーティングも含め、「火と水」の総合商社として、めざましい躍進を開始したのである。その他、昔ながらの伝統技術に新しいセンスを取り入れた美術銅器、銅製インテリアを開発するなど事業は多岐にわたって繰り広げられた。
昭和44年11月8日、卸町ビルを建設する。卸部門・倉庫部門・製造部門を移転統合した鉄筋3階建、1,169平方メートルの新社屋である。
翌年4月20日には厨房センターと従来の店舗を統合、「火と水のタゼンショールーム」として新築改装した。
さらに48年には卸町ビルの隣接地990平方メートル(300坪)を購入し、工事部門の設備センターを開設。住設機器の総合販売から取付設備工事まで付帯工事一切を請け負う専門の店としての陣容を整えたのでる。。
創業380年を迎えた昭和50年(1975年)には記念事業として、藩祖伊達政宗公霊廟瑞鳳殿に鎚起銅製家紋入大香炉一対を奉献。伝統の技術が今に生きていることを示した。昭和55年3月29日には荒巻店を開設。その後、57年に一番町本店(鉄筋4階建)を落成し、60年には当時の泉市に泉店を出店した。63年には株式会社タゼンに社名を変更。平成5年(1993年)には仙台市との合併で仙台市仙台市泉区となり発展著しい泉中央地区への商品供給を充実させるためにこの地域に進出、泉中央店をオープン。
平成18年3月には、手薄になっていた太白区に仙台南店を開設。さらに平成22年4月、仙台市ガス局南営業所1Fに「ガスショップタゼン」をオープン。東西南北、中央の地域密着体制が成った。